元住吉 歯科のエッセンス
「バブル会社法」には思わぬ落とし穴があった。
南海会社の首脳陣は自ら墓穴を掘ってしまったのだ。 南海会社の株だけは確実とされていたので、それ一つを残して他のすべての会社の株がパニック的に売られ始めた。
価格をいくら下げても誰も買おうとはしなかった。 そこでふと、投資家たちはある真実に気づいた。
つまり、株というものは上がることもあれば下がることもあるということだ。 しかも、下がる時は上がる時よりそのスピードは恐ろしく速いということも。
株価が一○○○ポンドの大台に達した時、上昇がピタリと止まった。 市場に一瞬、恐怖の静けさが張りつめた。
人々はもう株価は上がらないだろうと直感した。 次の瞬間、あれほど活況を呈していた市場から買い手が幻のように消えた。
株価はその日一日で一○○○ポンドから八九六ポンドへ、次の日は六四○ポンドへと崩壊していった。 それでも南海会社は宣伝屋を総動員して、四度目の新規募集を行なった。
しいまや二ヵ月で六割もの資産を失った投資家たちはスヶープ・ゴートを捜し始めた。 損をしたのは自分達の欲ボケのせいだとは絶対に思いたがらない投資家たちは、南海会社の首脳陣らに不満のはけ口を求めた。
一部の怒り狂った群集が首脳陣の家にまで押しかけた。 身の危険を感じた首脳陣らは最後の切り札を繰り出してきた。
一七二○年の九月に、クリスマスには三○%の配当を実施し、翌年からは五○%の配当を行なうと発表したのである。 しかし頭が冷えてまともになりかけていた投資家たちはー体、そんな膨大な配当をまかなう資金はどこから出されるのかとかえし、すでに時を失していた。
募集に応募する人はほとんどおらず、株価の下落に追いうちをかけるだけの結果に終わった。 このニュースはあっという間にイギリス中に広まり、株価はさらに下がり続けた。
一七二○年九月中頃には四○○ポンドにまで下落していた。 大混乱の中で、南海会社の首脳陣らはイングランド銀行に泣きついた。
会社の株を一株当たり四○○ポンドで引き取ってほしいという虫のいい頼みだったが、イングランド銀行側はそのあまりに巨大なリスクにたじろいだ。 そんな中で、南海会社とイングランド銀行の間で南海会社の巨額の債券を発行することが決まったという噂が流れた。
そのために株価は反発したが、結局その噂が根も葉もないことが知れ渡ると、株価は再び暴落して二度と戻ることはなかった。 投資家たちの不平不満は頂点に達し、怒り狂った暴徒がシティーを襲った。
事態は急を告げていたので、イングランド銀行は南海会社の救済にいやいやながらも乗り出した。 しかしもはやすべてが手遅れだった。
ついに大手の銀行で取り付け騒ぎが発生した。 社会の安定を取り戻し、信頼を回復するためには同社を破産させるしか手がないと気づいたイングランド銀行は、南海会社からすべての資金を引き上げた。
この騒ぎのおかげで、イギリスの金融システムは崩壊の一歩手前まで追いや疑い始めた。 一九二九年のニューヨーク株式市場での大暴落と、それに続く大恐慌の時代は、あまりにも深く歴史に刻みこまれてしまったために、その直前にアメリカ中が空前の〃好景気″に沸きかえっていたという歴史的事実はほとんど忘れ去られてしまっている。
一九二○年代、アメリカは「怒涛の二○年代」といわれるほどの目ざましい好況と楽観主義の果てにられ、オランダのチューリップ熱と同様、信用が回復するのに数十年かかった。 そして、首脳陣の一人でインサイダー取引をしていたC・Pは一七二○年九月、ナイフで首をかき切って自殺した。
株主名簿を保管していたL・Nはロンドンからこつ然と姿を消した。 風説によれば、身の危険を感じたNはドーバー海峡を越えて大陸へ逃亡したという。
好況を調歌し、不動産と株のブームに沸いた。 人々は借金をしてまで株式市場になだれ込んだ。
国と企業は好況に浮かれて巨額の設備投資に走った。 人々はこうしたことが永遠に続くと本気で思い込んでいたが、やがて歴史のパターン通りに崩壊が訪れる。
そして株式市場の暴落は大恐慌の引き金となっていった。 第一次世界大戦が終わったとき、アメリカは疲弊したヨーロッパの列強に代わって、世界最大の債権国にのし上がっていた。
戦時景気によってアメリカ経済は活況を呈し、終戦後もこの景気はもち越された。 一九二○年から一三年にかけて世界中は不況に悩まされたが、アメリカは目ざましい立ち直りをみせ、その後繁栄の絶頂へと突き進んでいった。
それと対照的だったのがイギリスである。 石炭や鉄鋼、繊維産業の不況は二○年代を通じてひどく、失業率はずっと高いままだった。
しかし後にイギリスが一九三○年代の大恐慌時代に他の国と比べてその影響が軽微だったのは、皮肉なことにこの一九二○年代の好景気を経験していなかったからなのだ。 没落しつつある国が覇権の移行期にあまり被害を受けない理由はここにある。
一九世紀末から第一次世界大戦にかけて、アメリカでは巨大な富の蓄積が行われていった。 こうした富とともに科学技術上の進歩が「怒涛の二○年代」の強力な推進力となった。
自動車やラジオ、それに電気である。 そして現代的な広告と分割払い方式といった大衆を魅惑する発明が二○年代の爆発的な消費ブームを作り出していった。
こうした楽観的なムードの中で、アメリカ人の価値観やモラルも大きく変わった。 スカートの丈は二○センチも短くなり、有名なチャールストンが流行った。
躍進し成長するアメリカ経済のために「神の恵みを受けたアメリカ」という言葉まで作られた。 キリスト教までビジネスのために利用された。
当時のベストセラー本の中には「イエス・キリストは近代ビジネスの創始者だった」という言葉まで登場してくる。 まさにアメリカは繁栄と幸福の絶頂にあった。
一九二八年一二月四日のクーリッジ大統領の一般教書にそのことはまざまざとあらわれている。 「アメリカの状況を見ると、これほどまで喜ばしい展望の下で議会が召集されたことはかつて一度もなかった。
わが国には平穏と満足があり、このところずっと未曾有の繁栄が続いている」。 この恐るべき楽観論が株の一大投機を巻き起こし、やがて大恐慌を引き起こすこととなる。
そしてこの楽観論は「最少の努力で簡単に金持ちになりたい」という願望と結びついていた。 この願望がまず噴出したのが、一九二五〜二六年のフロリダの不動産ブームだった。
このブームは異常な高まりを見せたが、やがてこの投機熱がウォール・ストリートへと伝染していく。 ダウ(ダウ・ジョーンズエ業株平均)は一九二五年に羽がはえ、離陸態勢に入った。
ダウは一九二四年までの一○年あまりは、一五○ドル以下をはいつくばっていた。 しかし、一九二五年以降カマ首をもたげ始め、一九二七年には二○○ドルの大台を超えた。
ニューヨーク市場の株価は二○世紀に入ってから二五年もかけて二倍になったのに、今度はわずか二年間で同じように二倍になってしまった。 そして一九二八年、上昇のピッチが速まった。
楽観主義の上に楽観主義が積み重なって株の価格を沸騰させた。 この当時はカルビン・クーリッジを大統領としてアンドルー.W・メロンを一九二八年の株式市場の特徴の一つは、「信用取引」が異常なほど急膨張したことだ。
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募集に応募する人はほとんどおらず、株価の下落に追いうちをかけるだけの結果に終わった。 このニュースはあっという間にイギリス中に広まり、株価はさらに下がり続けた。
一七二○年九月中頃には四○○ポンドにまで下落していた。 大混乱の中で、南海会社の首脳陣らはイングランド銀行に泣きついた。
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このブームは異常な高まりを見せたが、やがてこの投機熱がウォール・ストリートへと伝染していく。 ダウ(ダウ・ジョーンズエ業株平均)は一九二五年に羽がはえ、離陸態勢に入った。
ダウは一九二四年までの一○年あまりは、一五○ドル以下をはいつくばっていた。 しかし、一九二五年以降カマ首をもたげ始め、一九二七年には二○○ドルの大台を超えた。
ニューヨーク市場の株価は二○世紀に入ってから二五年もかけて二倍になったのに、今度はわずか二年間で同じように二倍になってしまった。 そして一九二八年、上昇のピッチが速まった。
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